僕の定義は、本人では変えられないものに基づいて、対応を変えること。
そのため、国籍、性別、ジェンダー、人種、肌の色等で、対応を変えるのは差別だ。
親がいないとかそういうことも差別になるだろう。本人の力では変更不可能だ。
一方で、それ以外のもので対応を変えるのは問題ない。つまり、本人が変更可能なものだ。
お金を持っているとか、年齢とか、眼鏡の人とか。学歴、足の速さ、もっと言えば、最近の技術がある前提での話だが、ルックス、胸の大きさでも良い。(ルッキズムや格差社会における学歴構造についてはおいておく)
公平(fairness)と平等(eaquality)の話はよく話題になる。最近、虐げられた人が、平等を強く願うあまり、公平さを失う行動をとっているのを目にする。差別の原因となっている、「差」を意識しての行動であろう。
世界、人々は平等ではない。例えば、男女間では、総じて男性のほうが力が強いし、女性のほうが共感力やコミュニケーション能力は高い。このような、違い、差があるから良いのであって、面白い。(もちろん、力が強いからといって、力仕事をしなければいけないわけではないし、コミュニケーション力が高いから子育てをしなければいけないわけではない。ただ適正はあるだろう。本人の意志と適正は別であることを理解しよう)
長所は、別の見方をすると、必ず短所なのだ。
クールな人は、愛嬌が無いということになるし、お金持ちの人は、お金のない人の気持ちがわからないというビハインドがある。すべて、表と裏の関係。
変更可能な「差」について、平等(eaquality)を求めるのは、公平性(fairness)、ひいては人間性を破壊する行為だ。もし、何かがほしい、獲得したいのであれば、努力して、行動し、獲得すればよいのであって、それを他者からもらおうとする行動がおかしい。獲得する機会(chance)は誰にでもあるのだから。自分の無行動、努力しないことを棚に上げて、他者、もしくは他人の考え方に依存した生き方をしても、いつまでたっても真のハッピーは訪れないだろう。
もし、欲しいのであれば、行動しよう。なんで私には無いの?と自分を追い込むよりは、どうすれば獲得できるだろう?と考えたほうが、よほど生産的であるし、未来を見ている。過去の「人」や「問題」をみるのは愚策だ。最も良いのは、「未来」の「問題」を解決するように考え行動することだ。次に良いのは、「未来」の「人」(どうあるか)を考えることだ、最も悪手は、「過去」の「人」にフォーカスする考えや言動である。単純に言うと、何も解決しない。
追記
こちらは、分かりやすくて、社会学的なアプローチで個人だけではなく、集団や組織、社会に触れられており良かったです。
「差別と社会」
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1418/00121109/02_kyozai_9_ronbun.pdf