なんで、と、どうすれば

なんで?は、人を非難する言い方、つまり、本当の問題の解決をしようとせず、そこから逃げて、自分の問題が解決されていない状況に対する答えを、短絡的に、しかも他者に理由を求める行動、言動。(往々にして、お前がこうしていればこうはならなかった、という言外の意味を含む)
どうすれば?を突き詰めれば、外部的な問題は、すぐやるとか、他の人に任せるとか、お金をかけて解決するとか、問題に対する対処になる。人のせいにすることで、問題から目を背け、自分の感情をかんたんに慰めようとしているだけに過ぎない。発生している事象、事実、問題点は変わらずそこにあるのだが、そこに感情や思いが入ってしまっており、問題解決からは遠ざかる言動だ。こういうことは人間関係から生まれる。(他人の子供に、なんで勉強しないの!?とは通常言わない)

難しい問題に対して、無理だということは絶対に許されなかった。とは、金持ち父さんに書いてある金言である。無理だと行った瞬間に、言霊となり、自分が発した言葉で、自分が最初に「無理だ」という言葉を聞いてしまう。そうすると、増幅され、洗脳され、この問題は自分で対処することができないと信じ込んでしまう。何より、自分が発しているのだ。そのため、無理だ、という言葉は使わないほうが良い。無理だ、というより、どうすれば?という言葉に言い換えるだけで、解決法が湧いて出てくるはずだ。

アドラー心理学に、「最終的にその問題の責任を取る人が動かないといけない」というのがある。例えば、子供に勉強しなさい!なんで勉強しないの?と言っても、子供がやらないという現象は、子供が勉強しない、する必要性を感じていないからで、最終的に勉強をしないで困るということを理解していないというのが根底にある。その上、困るのは子供本人であって、親ではない。そのため、親が何を言ったとしてもその問題の責任を取るのは子供なので、問題に向き合うのなら、「子供が困っている状況が、親が困る」という問題になっていることを認識するべきである。せめてコントロールできることは、親が困るということを論理的に子供に説明することと、勉強するとういことの必要性をしたときとしないときを比較して、どれだけ必要かを認識させることであろう。
それを子どもが認識した上で、勉強しないという選択をした場合、それを強制力を持って(場合によっては、脅したりして)やらせるのは、ひとえに親の傲慢である。諦めるか長期戦略で少しづつ理解を深める方法しかない。北風で支配しても、何も身につかない(特に学習や勉強は習慣化することや、継続することが肝要)ため、意味がない。勇気を振り絞って太陽であろう。